彼のこの説に対して「私もちょうどそう思ってたんだよー」なんて調子のいいことは言わないが(笑)、「へー、なるほどねえ」と思った。主にアメリカにおける、論理万能の尺度に、先生は大いに異論を唱えている。何でも理屈で説明ができないと、物事を説明&納得できないとなると、すぐにorやがて行き詰まってしまうというのだ。
日教組の大会でのある出来事を先生は例として挙げている。集会に参加した高校生に「何故人殺しをしてはならないのですか?」と聞かれ、アカ教師たちはすぐに理屈を思いつかなくて答えに窮してしまったという。「逮捕されるから」「親族が悲しむから」という理屈はもちろん説得力に欠ける。「自分がされて嫌な事はするな」という理由でさえ、理屈屋のガキには「別に嫌じゃないとしたらぁ?」なんて反論されそうだ。
藤原先生は答える。そんなものに理由はない。悪いものはとにかく悪い。子供にはそういうふうに説かねばならない。先生は武士道精神を挙げて、卑怯なことをするなと説く。
何でも法律や科学や理論で説明できないといけないということになるから、世の中おかしくなるのだ。クレームママが学校に詰め寄り、市民団体が妙なスローガンを掲げる。藤原先生は今取りざたされている「ポリティカル・コレクトネス」という考えに警鐘を鳴らしている。「弱者=正義」という、その人が女性、外国人、障害者等は善人だという短絡的な考え方だ。皆が言葉狩りを恐れて、無難な言動しかしなくなる。論理は確かに有用だが、それが万能だと偽善に満ちた非常に窮屈な世の中になる。
アメリカ主導のグローバル化に批判的だが、私が彼に耳を傾けるのは、それが決して左翼的反米思想ではないからだ。左派は覇権国家アメリカが嫌いなくせに、どーゆーわけか特定アジアの覇権国家をひいきしている。アメリカの対抗勢力=善/仲間というのは非常に短絡的な発想なのである。
先生が嘲笑する「世界市民」という偽善のお題目は、左翼思想家の常套句である。そんなのはフィクションであり、まずは家族と郷土を愛せない人間が、世界へ出て行って信用されるだろうか?と彼は説く。
また、評論家福田和也のように「自由」「平等」「民主主義」という概念にも疑問を投げかける。そういう欧米の合理的平等精神が、まやかしの偽善で世の中をおかしくしてきたのだと言う。これは、今の戦後日本人の意表をつく意見だ。何故なら日本人は「民主主義こそ最良、絶対正義」と教わってきた。
しかし、「主権在民」ほど危険なものはないと先生は語る。何故かというと良く言えば無垢で悪く言えば無知な一般人は、マスコミの煽りにすぐ乗っかってしまうからだ。朝○あたりのマスコミの世論操作に操られて、政権が混乱してしまっては困る。独裁政治家の煽りにだってすぐに乗ってしまう、実は一番戦争を起こしやすい人々なのだそうだ。
だから先生は、日本は一万人のエリートを養成せねばならないのだという。そういう意味で昔の旧制高校の果たす役目は大きかったのに、GHQに解体されてしまったのは残念なことだという。確かに東大卒の官僚はいるが、彼らは単なる受験バカなのだそうだ。真のエリートとは受験科目だけではなく、政治、文化、科学、芸術等について幅広く知識のあるインテリのことを言うそうだ。悪平等を学校制に持ち込んだために、戦後真のエリートが日本から消えてしまったと彼は嘆く。
……とまあ、各項目で賛否両論あるのだろうが、なかなか面白いのでオススメの一冊だ。

福田和也の「この国の仇」について書いた書評はここ。
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